榎田尤利 リブレ出版 2009/10
★★★★☆
わたしのエダさんに対する評価っていつもかなり辛口だと思う。
★評価するなら、エダさんの場合は★3つが最低基準値。そこはクリアして当然のライン。上手くて当たり前。エダ基準?
エダさんには、いつもいつも「上手な作品プラスα」を求めてしまっている。
この作品も、他の作家さんが書いていれば★6つぐらいの評価だったんじゃないかと。あ、もちろん★は5つが最高点として。
でも、「エダさんなら期待に応えてくれるから」とかいって最初から厳しい目で読もうとすると、往々にして上から目線になりやすいし、ある種の先入観のようなものを持って読んでしまうわけだから、かえって楽しめるものも楽しめなくなって損しているのではないかと思った。素直に読めば面白いのに、批評のために粗探ししてしまっているというかね。何のために読んでいるのか?って話になってしまう。
もちろん楽しむために読んでいる。しかも作品は恋愛小説。
自然に出てくる評価は別として、「それらしいこと」「わかったようなこと」を書くための辛口評価なら、いらない。
安定感があるからこそ要求するレベルが高くなってしまうわけだけど、実はハイアベレージを保っていられることこそ、凄いことであって、もっと評価するべきなんじゃないかと今回とくに強く思った。
ネタバレ
------------------------------------------------
「事故が原因で2度目の高校生活を送る久我山」というあらすじを読んで、事故で中退して高校に入りなおしたの?と思っていたのだが、SFだったのか。
自己中心的で、ちょっと感じの悪い弁護士が主人公。変な言い方だけど、嫌味のない感じの悪さというか。キャバ嬢のあしらいかたとか、親友に付き合ってくれと頼まれると断れなかったりとか、確かにイヤな奴だけど、どこか憎めない。さすがエダさんという、バランス感覚。
わりと好きなタイプだし、高校生より感情移入しやすくていい。
高校生に戻ってしまった久我山の戸惑い方も上手だった。ルーズソックスとか、Win95発売前とか、時代設定が上手。そうだった、そうだったと懐かしい気分になった。これはルーズソックスを履いたことのある世代の読者のほうが楽しめるかも。
ケータイのメールじゃなくて、ポケベル使ってたころかなー。でも高校生じゃポケベルは持ってないのが普通だったような。私の周りには、あんまりいなかった気がする。
これが高校生の久我山の視点でさらっと描写されても、それほど懐かしくはなかったかもしれないけど、ネットや携帯に慣れ親しんだ現代人の視点だから面白いんだと思う。
あと、大人の目から見た高校教師の子供っぽさも頷けるものがあった。そーなんだよな、高校生から見ると二十代後半の先生は大人だったし、自分の親に対しても求める理想が高すぎて厳しくなっちゃったりしたよなーと思い出した。
結果は苦くなっちゃったけど、デートの場面も楽しかった。いま自分が高校生に戻ったらって想像してみると、(大人になった今の自分なら)あの恋もうまくいったかも?みたいなことはやっぱり考えちゃうものだし、これは押さえておいてほしいポイントっていうか(笑)
なんて懐かしんでいるうちにも、久我山の家庭の事情とか、未熟ながらも理想を持った曾根の若き日の姿とか、特殊な設定を抜きにした部分でも話に引き込まれていく。
優しさとか危うい部分とか、31歳になったからこそ気付いた曾根の魅力もよかった。再会してから当時は気付かなかった相手の魅力に気付くってやつの、変形かなー。再会もの好きだから、ツボだった。映画の台詞も、授業なのになんかドキッとするものがあるし。
失恋して自棄酒を飲む久我山は、高校生に戻ったみたいに恋をしていて、いいなあと。さすが初恋。
絶対に曽根の未来を変えなくてはいけないという重たい理由もあったけど、失恋しても離れられなかった理由はそれだけじゃなく…切なかった。
曾根に影響されたし、高校生活をやり直すうちに見えてきたものも多くて、31歳の久我山もちょっとずつ成長していく。意識を共有していないこともあって、17歳の自分を別の人格として扱っていた彼は、両親の離婚に際して自分に投げつけられる辛い言葉を、17歳の自分には聞かせたくないと思う。自分を守るためっていうよりは、大人として子供を守ってやりたいという気持ちから、そう願うところがよかった。
17歳の久我山は、話を聞いてくれる曽根という存在もなくて、きつかっただろうなあ…。
最後に曽根とラーメンを食べに行く久我山の純情には胸キュン(…)だった。好きな人とならラーメンを食べに行くだけでも、こんなに特別なんだよね~と。
BLなら助からないはずはないと思っていても、やっぱりハラハラしてしまう場面で。久我山が心配っていうより、曾根はどうなっちゃうの?っていう不安のほうが大きかったかな。ハッピーエンドでしょって分かってても、見届けないと安心できなかった。
生きててよかった。
ほんと、そう思える話だった。
今回もさすがエダさん、でした。
続編のほうは、じれったく続いていた恋愛がようやく成就するところ。曾根はもとから不器用そうだし、久我山は初恋だし(笑)、なんだか可愛らしい恋愛になっていた。よかったね~。…やっぱり年下攻はいいなあと。
一人称「私」(人様のレビューに反応して、ちょっとだけ思ったことを追記。)
久我山のプライドの高さ、頭がいいという自信の表れから「私」という一人称を使ったのでは。こういう頭のいいエリートタイプの自我としては、「私」がぴったりなんじゃないかと思う。
人と喋るときは、親しい友人に対してはくだけた「俺」、いい人ぶりたいときは「僕」と使い分けているのも、久我山のそつのなさの表れかなと。会話で「私」と使って、堅苦しさや取っ付きにくさ、あるいはエリートであるという自覚みたいなものを人に悟らせてしまうのは、利口な彼としては「スマートじゃない」と思っているのかも。
外面のよさと性格の悪さのギャップを、一人称の使い分けで表現しているような気がする。
別の作家の作品で一人称「私」に難癖をつけたときは(……)、使い分けをしている意味も効果も感じなかったけど、この作品では結構違和感なく読めたし、きちんと意識しての使い分けだなーと感じた。
…まあ作品への好意から、そういうふうに感じただけかもしれないけど。
★★★★☆
わたしのエダさんに対する評価っていつもかなり辛口だと思う。
★評価するなら、エダさんの場合は★3つが最低基準値。そこはクリアして当然のライン。上手くて当たり前。エダ基準?
エダさんには、いつもいつも「上手な作品プラスα」を求めてしまっている。
この作品も、他の作家さんが書いていれば★6つぐらいの評価だったんじゃないかと。あ、もちろん★は5つが最高点として。
でも、「エダさんなら期待に応えてくれるから」とかいって最初から厳しい目で読もうとすると、往々にして上から目線になりやすいし、ある種の先入観のようなものを持って読んでしまうわけだから、かえって楽しめるものも楽しめなくなって損しているのではないかと思った。素直に読めば面白いのに、批評のために粗探ししてしまっているというかね。何のために読んでいるのか?って話になってしまう。
もちろん楽しむために読んでいる。しかも作品は恋愛小説。
自然に出てくる評価は別として、「それらしいこと」「わかったようなこと」を書くための辛口評価なら、いらない。
安定感があるからこそ要求するレベルが高くなってしまうわけだけど、実はハイアベレージを保っていられることこそ、凄いことであって、もっと評価するべきなんじゃないかと今回とくに強く思った。
ネタバレ
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「事故が原因で2度目の高校生活を送る久我山」というあらすじを読んで、事故で中退して高校に入りなおしたの?と思っていたのだが、SFだったのか。
自己中心的で、ちょっと感じの悪い弁護士が主人公。変な言い方だけど、嫌味のない感じの悪さというか。キャバ嬢のあしらいかたとか、親友に付き合ってくれと頼まれると断れなかったりとか、確かにイヤな奴だけど、どこか憎めない。さすがエダさんという、バランス感覚。
わりと好きなタイプだし、高校生より感情移入しやすくていい。
高校生に戻ってしまった久我山の戸惑い方も上手だった。ルーズソックスとか、Win95発売前とか、時代設定が上手。そうだった、そうだったと懐かしい気分になった。これはルーズソックスを履いたことのある世代の読者のほうが楽しめるかも。
ケータイのメールじゃなくて、ポケベル使ってたころかなー。でも高校生じゃポケベルは持ってないのが普通だったような。私の周りには、あんまりいなかった気がする。
これが高校生の久我山の視点でさらっと描写されても、それほど懐かしくはなかったかもしれないけど、ネットや携帯に慣れ親しんだ現代人の視点だから面白いんだと思う。
あと、大人の目から見た高校教師の子供っぽさも頷けるものがあった。そーなんだよな、高校生から見ると二十代後半の先生は大人だったし、自分の親に対しても求める理想が高すぎて厳しくなっちゃったりしたよなーと思い出した。
結果は苦くなっちゃったけど、デートの場面も楽しかった。いま自分が高校生に戻ったらって想像してみると、(大人になった今の自分なら)あの恋もうまくいったかも?みたいなことはやっぱり考えちゃうものだし、これは押さえておいてほしいポイントっていうか(笑)
なんて懐かしんでいるうちにも、久我山の家庭の事情とか、未熟ながらも理想を持った曾根の若き日の姿とか、特殊な設定を抜きにした部分でも話に引き込まれていく。
優しさとか危うい部分とか、31歳になったからこそ気付いた曾根の魅力もよかった。再会してから当時は気付かなかった相手の魅力に気付くってやつの、変形かなー。再会もの好きだから、ツボだった。映画の台詞も、授業なのになんかドキッとするものがあるし。
失恋して自棄酒を飲む久我山は、高校生に戻ったみたいに恋をしていて、いいなあと。さすが初恋。
絶対に曽根の未来を変えなくてはいけないという重たい理由もあったけど、失恋しても離れられなかった理由はそれだけじゃなく…切なかった。
曾根に影響されたし、高校生活をやり直すうちに見えてきたものも多くて、31歳の久我山もちょっとずつ成長していく。意識を共有していないこともあって、17歳の自分を別の人格として扱っていた彼は、両親の離婚に際して自分に投げつけられる辛い言葉を、17歳の自分には聞かせたくないと思う。自分を守るためっていうよりは、大人として子供を守ってやりたいという気持ちから、そう願うところがよかった。
17歳の久我山は、話を聞いてくれる曽根という存在もなくて、きつかっただろうなあ…。
最後に曽根とラーメンを食べに行く久我山の純情には胸キュン(…)だった。好きな人とならラーメンを食べに行くだけでも、こんなに特別なんだよね~と。
BLなら助からないはずはないと思っていても、やっぱりハラハラしてしまう場面で。久我山が心配っていうより、曾根はどうなっちゃうの?っていう不安のほうが大きかったかな。ハッピーエンドでしょって分かってても、見届けないと安心できなかった。
生きててよかった。
ほんと、そう思える話だった。
今回もさすがエダさん、でした。
続編のほうは、じれったく続いていた恋愛がようやく成就するところ。曾根はもとから不器用そうだし、久我山は初恋だし(笑)、なんだか可愛らしい恋愛になっていた。よかったね~。…やっぱり年下攻はいいなあと。
一人称「私」(人様のレビューに反応して、ちょっとだけ思ったことを追記。)
久我山のプライドの高さ、頭がいいという自信の表れから「私」という一人称を使ったのでは。こういう頭のいいエリートタイプの自我としては、「私」がぴったりなんじゃないかと思う。
人と喋るときは、親しい友人に対してはくだけた「俺」、いい人ぶりたいときは「僕」と使い分けているのも、久我山のそつのなさの表れかなと。会話で「私」と使って、堅苦しさや取っ付きにくさ、あるいはエリートであるという自覚みたいなものを人に悟らせてしまうのは、利口な彼としては「スマートじゃない」と思っているのかも。
外面のよさと性格の悪さのギャップを、一人称の使い分けで表現しているような気がする。
別の作家の作品で一人称「私」に難癖をつけたときは(……)、使い分けをしている意味も効果も感じなかったけど、この作品では結構違和感なく読めたし、きちんと意識しての使い分けだなーと感じた。
…まあ作品への好意から、そういうふうに感じただけかもしれないけど。
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